【即位の礼】天皇陛下の「即位の礼」 儀式で用いる「三種の神器」の歴史
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【即位の礼】天皇陛下の「即位の礼」 儀式で用いる「三種の神器」の歴史
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来たる10月22~31日にかけて新天皇の「即位の礼」が行なわれる。一番重要なのは初日の昼過ぎに実施される「即位礼正殿の儀」で、総理官邸ホームページ掲載の「即位礼正殿の儀の次第概要」には、「天皇陛下が正殿松の間にお出まし」になるのに続き「侍従がそれぞれ剣、璽(じ)、国璽及び御璽を捧持」し、「天皇陛下が高御座(たかみくら)にお昇り」になるのに続いて「侍従が剣、璽、国璽及び御璽を高御座の案上に奉安」すると手順が記されている。
ここにある「剣、璽」はいわゆる「三種の神器」のなかの草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を指している。「三種」と言いながら二つしかないのは、残る八咫鏡(やたのかがみ)が宮中の賢所(かしこどころ)に安置され、移動が禁じられているからだ。賢所での儀礼は即位当日の5月1日、すでに行なわれている。
改めて、三種の神器について説明しよう。『日本書紀』には、八坂瓊曲玉と八咫鏡は「天石窟(あまのいわや)に籠もった天照大神を誘い出すために使用された神器」で、草薙剣は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したとき、その尾の中から得た剣」と記されている。一方、『古事記』には、天照大神が孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を地上へ降臨させる際に、これらを授けたと記されている。
その後、八坂瓊曲玉だけは天皇の側にあったが、八咫鏡は伊勢神宮の皇大神宮(内宮)の、草薙剣は熱田神宮の御神体とされ、それぞれの形代(かたしろ)と呼ばれるレプリカ(複製)が宮中に献上されたという。
記録に残る限り、即位礼に草薙剣と八咫鏡が用いられた最初の例は持統天皇が即位した690年になるが、実際はそれより前に遡るかもしれない。時期が特定できないにしても、これに八坂瓊曲玉を加えた三種の神器がそれほど重要なものであれば、形代と呼ぶのには違和感が残る。むしろ、皇位継承儀式のためにつくられたオリジナルと認識すべきであろう。
それだけに、1183年7月の平家一門の都落ちに際し、安徳天皇が連れ去られただけでなく、三種の神器まで持ち去られたことがわかると、比叡山に逃れて同行を免れた後白河法皇を始め、公卿たちもみな頭を抱え込んだ。新たな天皇を立てようにも、皇位継承の儀式である践祚(せんそ)の式を行なうには三種の神器のどれ一つとして欠けてはならなかったからだ。それが一つどころか三つとも持ち去られてしまったため、法皇は平家追討より三種の神器の確保を優先させようとしたほどだった。
けれども、天皇不在の状態を長期化させるのはさすがにまずい。誰を擁立するかは占いによって決められたが、問題は“三種の神器なしの践祚”をいかに正当化させるかである。
議論の末に出された結論は、「三種の神器は神そのものでもあるから、然るべき主のもとに必ず帰ってくる。ゆえに現物がなくても践祚は成立する」という論理だった。
かくして後鳥羽天皇が即位したわけだが、1185年3月の壇ノ浦の戦いにおいて平家が滅亡した際、大問題が生じた。八坂瓊曲玉と八咫鏡は無事回収されたが、安徳天皇ばかりか草薙剣までもが海の藻屑と消えてしまったのである。朝廷では鎌倉の源頼朝を通じて源範頼と義経に壇ノ浦での捜索を継続させるかたわら、全国の主だった寺社に加持祈祷を要請するなど、藁にも縋る思いでいた。
草薙剣の抜けた穴を何で埋めるか。とりあえず宮中の清涼殿に安置されていた「昼御座(ひのおまし)の剣」を代用としたが、1210年に後鳥羽が先に伊勢神宮から献上された新たな宝剣を採用する案を思いつくと、朝廷ではそれを草薙剣の後継と認める案が満場一致で可決された。その後、三種の神器は南北朝時代の一時期を除いて、宮中に留め置かれた。
1443年には南朝の残党に与する一団が内裏を襲い、八坂瓊曲玉を盗んで吉野へ持ち去る事件(禁闕の変=きんけつのへん)が起きるが、入念な作戦計画と交渉が功を奏して、1458年には無事内裏へと戻された。
戦国時代以降、三種の神器に関する記録はめっきりと減るが、今回の即位礼にも登場することからわかるように、宮中では時代を超えて受け継がれている。